石川県七尾市須曽町 先崎大明神社秋祭り 須曽壮年団  2008/10/11(土)
能登島では「団七踊り」が七カ所に伝わり全国的にみても数多い地域という。
団七踊りは人形浄瑠璃「碁太平記白石噺」に由来し、なぎなたと鎖がまを持った姉妹が、父の仇の悪代官に挑む様子を三人で表現する。

〜 宮城野・信夫 姉妹の仇討ち物語 〜

片倉家領内逆戸村(現在の大鷹沢三沢)の農民与太郎は、二人の娘と一緒に、田の草取りをしていました。何気なく妹が草を投げたところ、志賀団七という武士に泥がかかってしまいました。
団七は烈火のように怒り、与太郎は娘に代わり懸命に謝ったものの、その場で切り捨てられてしまいました。

姉妹は父の仇を取るため、江戸に上り、剣術指南役の由井正雪に弟子入り・奉公しました。
正雪は、姉に宮城野、妹に信夫(しのぶ)と名前を与え、姉にはくさりがまを、妹にはなぎなたを教えました。5年間修行をした姉妹は、正雪の弟子と互角に渡り合う程の腕前となり、仇討ちのため、正雪の弟子に送られて郷里に戻りました。

姉妹のことは正雪から片倉家に、片倉公から伊達家に、また伊達家から江戸幕府まで伝えられました。300人の足軽が固めた21間4面の矢来の中で、47人の家臣を連れた片倉小十郎公に見守られながら、姉妹は、信夫、宮城野の順に戦いました。
宮城野のくさりがまでとらえられた団七は、信夫のなぎなたに切り捨てられ、宮城野の鎌が団七にとどめを刺しました。

みごと仇のを討ち果たした姉妹はその場で自害しようとしましたが、役人に押しとどめられ、その黒髪を切って仏道に帰依しました。姉妹は亡き父母、団七の供養をした後に、慶安の謀反を起こし静岡で自害した師正雪の供養のために、静岡に移り住み、そこで生涯を送ったそうです。

この話は、白石噺(しらいしばなし)として、歌舞伎・人形浄瑠璃などに今も残されています。
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